『極秘破壊作戦』デイル・ブラウン [翻訳]
『暗殺者の鎮魂』グリーニー [翻訳]
『テロリストの回廊』クランシー&テレップ [翻訳]
『ブラックホーク・ダウン』ボウデン [翻訳]
『フラット化する世界』普及版・全3巻 トーマス・フリードマン [翻訳]
新・翻訳アップグレード教室(44)最終回 [翻訳]
前回は視点の話をしたが、視点を統一し、主語をはぶくテクニックのひとつとして、受動態を使うという手がある。それから、主語を人間ではなくモノにするという手もある。また「ジャックがコーヒーを渡し、ベティがそれを受け取った」というような原文の場合、パラグラフをベティの視点にそろえたいなら、「ベティは、ジャックの差し出したコーヒーを受け取った」とまとめてしまうことも可能だろう。
英語に受動態が多いのは、神という絶対的な視点があるからだともいわれている。しかし、「ベッドにリンゴが置かれていた」というような文は、日本語にはあまりなじまない。「ベッドにリンゴが置いてあった」のほうがすっきりする。
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といったようなことを、雑然と書き綴ってきたのがこの項目だが、なにせ書き飛ばしているし、熟慮の末の発言ではない。異論反論オブジェクションもあるであろう。あくまで参考程度にとどめてほしい。
本来ならまとめて推敲すべきだろうが、そのひまもない。全文をネットから取り込めるように、近いうちファイルをどこかにアップするつもりなので、なにせ順序もなにもない駄文ではあるがご笑覧されたい。その説には、このブログのファイルも整理する予定である。
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それよりもこれよりも、巷の翻訳を見ていると、「アップグレード」どころではなく「ベーシック」ができていないという気がするので、もうちょっと年齢を下げ、若い衆に未来を切りひらいてもらうのを目的としたエーゴ勉強のための記事を立ちあげようと思っている。
ということで、構想が固まるまで、しばしお待ちいただきたい。さらば。
新・翻訳アップグレード教室(43) [翻訳]
今回はとくに視点の問題を取りあげたいと思う。
日本推理作家協会会報10月号の「新・剛爺コーナー」(14)で逢坂剛氏が書かれているとおり、海外作品は「まず例外なしに、視点がめちゃくちゃでご都合主義」で、おなじ人名の表記が「ジム」「ジミー」「ジェイムズ」とまちまちだったり、急に苗字に変わっていたりする。逢坂氏は「訳者諸氏に、訳すときに統一してくださいとは言いにくい」とやさしくいってくださるのだが、この二点がきちんとしていないのは、はっきりいって訳者の責任である。
ひとつのパラグラフで考えてみよう。最初に「ジム」といった主語を出したら、そこから先はジムの視点として文を組み立て、主語はできるだけはぶく――それが正しい訳の手順だと思う。乱暴ないいかたをすれば、三人称単視点であろうと多視点であろうと、パラグラフのなかの視点はひとりに統一すべし。これは翻訳の基本である。
むろん特殊な書き方の作品は、このかぎりではない。しかし、アメリカの小説の主流であるミステリなどのエンタテインメントは、そういうふうに訳して大きな問題が生じるとは考えにくい。そういう作業を怠っているとしか思えないのである。
ひとつ注意しなければならないのは、視点と主観とはちがうということだ。ジョゼフ・ハンセンのブランドステッター・シリーズのうちの一冊を訳したことがあるが、この本はすべてブランドステッターの視点(三人称)で書かれているが、主人公の好悪や感情を表わす言葉が出てくる場面は、たった一カ所しかなかった。あとはすべて主人公の視点からの観察である。つまり、三人称でありながら、「神の目」で俯瞰するのではなく、一人称に近い書き方なのである。機会があればぜひ読んでほしい。
むろん、なにもかもがハードボイルドの王道を歩もうとするそんな作品ばかりではない。文章が粗く、視点がずれているような文のほうが多い。
それを補い、なおかつ、あるところは姓であるところは名であるのを統一するのは、訳者として当然の作業だろう。もちろん、愛称に意味があるときなどは、この限りではない。そうではない不統一をじつに多く見かける。
こういったことに心を砕くのは当然だと思う。それを指摘されるというのは、翻訳書や訳者全体の質が落ちている徴候だろう。恥ずかしいことだ。
「新・剛爺コーナー」の全文は日本推理作家協会のHPで見ることができるが、現時点では10月号はまだ掲載されていない。念のため。
新・翻訳アップグレード教室(42) [翻訳]
額面どおりには受けとめられない言葉、というものがある。
原文にpenとあった場合、現代では、まずインクをペン先につける「ペン」や「万年筆」の場合はすくないだろう。たいがいボールペンだと思ってまちがいない。国語辞典の語義によれば、「ペン」には「ボールペン」も含まれているようだが、日常生活で「ボールペン」を「ペン」と言うことは少ないように思う。だから、そのまま「ペン」とするのはためらわれる。
こういうふうに、言葉と現実が時代を経てずれてきたもうひとつの例は、blotterだろう。英和辞典ではいまだに「吸い取り紙」となっているが、現在では「デスクマット」を指す場合がほとんどだ。いまなお吸い取り紙をblotter padと呼ばれる敷物においている御仁もいるかもしれない。わたしも吸い取り紙のついたローラーというのか……なにやらを持っている。しかし、十中八九、「デスクマット」のほうが適切だと思われる。
辞書に載っていない言葉というのは、ほんとうにいっぱいある。例えば、a Greek dinerを「ギリシア人の食堂」と訳しているのをよく見かけるが、これも時代の流れとともに普通名詞化した言葉だ。だから、いまはギリシア人とは関係のない店もこう呼ばれている。早朝から深夜まで営業している安食堂(たいがい酒は出さない)を、昔は港辺りでギリシャ人がやっていたのだろうか。舵輪やギリシャ風の安っぽいレリーフなどが飾られているこうした食堂を、東海岸で見かけたことがある。また、NYの屋台のシャシリク(シシカバブ)はトルコ人がやっているようだ。イタリア人も含めて、アメリカのこのあたりの食の世界は地中海人に占領されているといっても過言ではないだろう。
ところで、われわれは話し言葉では「ギリシャ」と言うが、正式には「ギリシア」らしい。うーむ。
新・翻訳アップグレード教室(41) [翻訳]
明治時代のひとびとは偉かった。おかげで翻訳という仕事がなりたっている。漢学の素養のあるひとびとが、それまであまり知られていなかった新しい概念を表わす言葉を、さまざまなところから見つけ出してくれたからだ。現代のわれわれは、そういう作業をおこたっているといえなくもない。
例えば、「情報」と訳される英語にはinformationとintelligenceがあるが、このふたつは原語ではまったくちがう使われ方をしている。前者は分析・評価前の生の情報であり、後者は国家の戦略的情報など、処理後の情報のたぐいである。前者は日本語では「報告」と訳したほうが適切な場合もあるだろう。
後者はむろん狭義で「諜報」「スパイ(組織)」の意味もある。アメリカの情報機関は、CIA、DIA、NSAなどすべてをひっくるめて、Intelligence Communityと呼ばれている。「情報機関」という一般名称のおおまかな訳語では、この限定した諸機関の集合を正確に示しているとはいえない。しいていうなら「アメリカ情報機関集合体」とでもいおうか。これも訳語がない例である。
strategy(戦略)とtactics(戦術)の区別がよくわかっていない例も散見する。これはなんとなく日本人のメンタリティを表わしているような気がする。たとえば、「K泉首相は郵政民営化という目的を掲げていたが、そのための戦略を欠いていた」という場合、全体を見通して物事を動かす大計画がなかった、ということになる。「戦術がまずかった」といえば、各方面への根回しや説得、国民への訴えかけが不足していたことを指す。おおまかにいえば、戦略は全体としての戦いであり、戦術は個々の戦い(現場)である。
英語にかかわっていると、こうした概念のずれの問題にたえずぶつかる。問題意識がなければ、うっかり見過ごしてしまうのだろうが……。
新・翻訳アップグレード教室(40) [翻訳]
どういうひとたちが、どれぐらいこのブログを読んでいるかは定かでないのだが、もしこれから翻訳の勉強(ことにミステリ)をしたいと思っているのなら、やる気のある講師陣がいちばん充実していて、費用効率がいいのは、ユニカレッジだ。というのも、ひとクラスの人数をごく少数に限定しているからで、これは他の翻訳学校とはまったくちがう。施設が小さく、コストが小さいので、さほど利益をあげなくやっていけるのかもしれないが、なによりもそういう寺子屋主義でやっているのだ。興味がある向きはいかのHPに。
http://www.unicol.co.jp/pages/info01.html
翻訳学校で1~2年学んで、あきらめてしまう生徒も多いが、5~10年ぐらい学んでプロになっているものが多いのは頭に入れておくべきだろう。そもそも、学校で添削指導するテキストの量は限られている。それよりもふだんの生活にどれだけ「翻訳」を取り込めるかが重要になる。いまは小説やノンフィクションの翻訳だけで食べていくのは、よっぽどの実力がないと難しいが、ワーキングプアでありつつも生き残れば、なんとか道はひらけるかもしれない。
この話を徹底してやると長くなってしまうので、これにて終了。