新・翻訳アップグレード教室(43) [翻訳]
今回はとくに視点の問題を取りあげたいと思う。
日本推理作家協会会報10月号の「新・剛爺コーナー」(14)で逢坂剛氏が書かれているとおり、海外作品は「まず例外なしに、視点がめちゃくちゃでご都合主義」で、おなじ人名の表記が「ジム」「ジミー」「ジェイムズ」とまちまちだったり、急に苗字に変わっていたりする。逢坂氏は「訳者諸氏に、訳すときに統一してくださいとは言いにくい」とやさしくいってくださるのだが、この二点がきちんとしていないのは、はっきりいって訳者の責任である。
ひとつのパラグラフで考えてみよう。最初に「ジム」といった主語を出したら、そこから先はジムの視点として文を組み立て、主語はできるだけはぶく――それが正しい訳の手順だと思う。乱暴ないいかたをすれば、三人称単視点であろうと多視点であろうと、パラグラフのなかの視点はひとりに統一すべし。これは翻訳の基本である。
むろん特殊な書き方の作品は、このかぎりではない。しかし、アメリカの小説の主流であるミステリなどのエンタテインメントは、そういうふうに訳して大きな問題が生じるとは考えにくい。そういう作業を怠っているとしか思えないのである。
ひとつ注意しなければならないのは、視点と主観とはちがうということだ。ジョゼフ・ハンセンのブランドステッター・シリーズのうちの一冊を訳したことがあるが、この本はすべてブランドステッターの視点(三人称)で書かれているが、主人公の好悪や感情を表わす言葉が出てくる場面は、たった一カ所しかなかった。あとはすべて主人公の視点からの観察である。つまり、三人称でありながら、「神の目」で俯瞰するのではなく、一人称に近い書き方なのである。機会があればぜひ読んでほしい。
むろん、なにもかもがハードボイルドの王道を歩もうとするそんな作品ばかりではない。文章が粗く、視点がずれているような文のほうが多い。
それを補い、なおかつ、あるところは姓であるところは名であるのを統一するのは、訳者として当然の作業だろう。もちろん、愛称に意味があるときなどは、この限りではない。そうではない不統一をじつに多く見かける。
こういったことに心を砕くのは当然だと思う。それを指摘されるというのは、翻訳書や訳者全体の質が落ちている徴候だろう。恥ずかしいことだ。
「新・剛爺コーナー」の全文は日本推理作家協会のHPで見ることができるが、現時点では10月号はまだ掲載されていない。念のため。