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新・翻訳アップグレード教室(39) [翻訳]

 きょうは鉄っちゃんの話――といっても、そう本格的な鉄っちゃんではなく、あくまで翻訳にかかわりのある鉄道話。
 物を書く作業は、自分の頭のなかにある材料を主に使うから、思い込みに左右されやすい。でも、世の中の環境はその国や時代によってちがうから、注意しなければならない。
 クリス・クリストファーソンが書き、恋人でもあったジャニス・ジョプリンが歌って有名になった「ミー&ボビー・マギー」の冒頭の文句は「バトン・ルージュでぺしゃんこに叩きのめされ、ジーンズみたいにボロボロになってwaiting for a train」となっている。それで、高校生のころは、このあとのBobby thumbed a diesel downをなんとはなしにディーゼル機関車だと思いこんでいたのだが、鉄道の運転手が目の敵にしているホーボーを乗せるわけがない。ジミー・ロジャーズの歌の題名にもなっているこのwaiting for a trainという言葉は(原詩ではheading for a train)象徴的なきまり文句なのだ。ボビーが親指を立てて乗せてもらったのはトラックだったのだ。
 マクラがちょっと長くなったが、英米の鉄道は日本みたいに電化が進んでいない。だから、dieselで「ディーゼル機関車」を連想してしまったわけだ。
 そんなわけだから、engineはユーロスターのようなものはべつとして、「電気機関車」とはかぎらず、「蒸気機関車」ではないにしても、「ディーゼル機関車」であるかもしれない。trainは「電車」ではなく「汽車」「列車」かもしれない。そのときどきに応じて、考証が必要になる。
 われわれは、この数十年のあいだに普及したものが、あたりまえに存在しているかのように思いがちだが、1960~70年代はコンピュータなどという言葉よりも、「電子頭脳」「電子計算機」といったSFじみた言葉のほうが知られていた。テレビドラマの「コンバット」では、ヘルメットは「鉄兜」だった。車は「自動車」、トラックは「貨物自動車」だった。ステレオは「電蓄」「ハイファイ」だった。すこし前の時代の作品を訳す場合には、(多少でよいが)こういう斟酌も必要だろう。
 戦前の話ではありませんよ……。
 


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新・翻訳アップグレード教室(38) [翻訳]

 翻訳という作業でいちばん大事なのは、「疑ってかかること」ではないかと思う。その場合、いちばん疑ってかからなければならないのは、自分の訳文なのである。
 そして、つねにaltanativeと複数のoptionがなければならない。

Later, the president called his father back and apologized for hanging up on him, and no permanent rift develolped, according to source familiar with the incident.

 ブッシュ大統領(現)が、シニアと電話で議論し、腹立ちまぎれに電話を切ってしまった。そのあとで電話をかけ直して謝った、という文脈である。ここでは、no permanent rift developedという部分だけを取りあげる。
「永続的な亀裂にはならなかった」「一生つづく不和にはならなかった」といったような表現が、まず頭に浮かぶだろう。まあ、まちがいとはいえないかもしれない。しかし、それが文脈に合うだろうか? それと、「――的」という言葉は、できるだけ避けたい。
 言葉の意味はわかっているのだから、ひとまず辞書は閉じよう。
 そして、目をつぶり。状況を思い浮かべる。
「永続的」「一生つづく」あるいは「亀裂」「不和」というのはoptionである。いろいろな言葉が考えられる。altanativeとは、まったくちがう発想から生まれるものでなければならない。表面をなぞった訳ではなく、もうちょっと踏み込むとどうなるか? それを考えてみよう。
 それに、「亀裂」「不和」という言葉は強すぎる。では、だれかとのあいだが気まずくなることを表現するとき、どんな言葉を使うか、そこから考える。やまとことばはないだろうか? 「しこり」「わだかまり」などはどうだろうか? 原語の語義を考えると、すこしずれるかもしれない。しかし、雰囲気はよくわかる。
 permanentはriftにかかるから、「しこり」に近づけた言葉を捜す。「あとあとまで残る」といういいまわしもいいかもしれない。その線で訳してみる。

 この出来事に詳しい複数の情報源によれば、後刻、ブッシュ大統領が父親に電話をかけ、途中で切ったのをあやまったので、しこりがあとあとまで残ることはなかったという。

 何度もいうようだが、ぜったいにこれが正しいという訳は存在しない。好みの問題もある。ただ、この項では、提案しているだけである。わかりやすくよみやすい訳文をできるだけこころがけ、翻訳書の読者を増やしたい――そういうふうに文章を編んでいってほしいと思う。


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新・翻訳アップグレード教室(37) [翻訳]

 毎回いろいろ小難しいことを書いているが、ひとつの理由は、いまの翻訳者の世界が、あからさまな批判や意見をひどく嫌う傾向があり、そのためピアレビューがなりたたない――それをなんとかしたいと思うからである。ピアレビューがなりたたなければ、翻訳の質はあがらない。仲良し同士なあなあでやっていたので発展がない。そうすると辛口の意見も出ようというものだ。
 褒めるというのもなかなか難しい。褒めるという行為は、相手を下に見るものであるからだ。それを承知していながら、同輩、もしくは先輩相手に褒め言葉が吐けるはずもない。
 そこを枉げて、枉げて、今回はプロらしい仕事に敬意を表するために、いつに似ず少々甘ったるい発言をするのを許してもらいたい。
     *      *
 本来ならあとがきに書くべきかもしれないが、『イエスの王朝』の共訳者、黒川由美さんの仕事ぶりには、たいへん助けられた。前半と後半のチェックを、字使いまでふくめて丁寧に行ない、字句の統一に心を砕いてくださった。もちろん、そういう細かいことばかりではなく、訳文のつくりかた、調べ物、なにからなにまでプロフェッショナルらしい仕事ぶりだった。
     *      *
 これはべつの話になるが、下訳を頼んで、原稿をもらったあと、その後の訂正や推敲の連絡を受けたことは、ほとんどない。もちろんあとはこちらの責任ではあるが、自分はここまで――という意識がはっきりしすぎているように思う。報酬に見合う仕事のしかたかもしれないが、力量を示す機会を失うことにもなるから、残念だと思う。
     *      *
 ぱらぱらと訳書をめくっていても、目に留まる文がある。リズムのいい文章であることが多い。それから、冒頭はたいへん重要だ。そこで読者を引き込めるかどうかが決まる。
『死海文書の謎を解く』は、この冒頭の訳文がたいへんすぐれている。風景など、立体感を出さなければならない描写は、訳すのが難しい。偏見かもしれないが女性は三次元の描写が得手ではないようだ。地図の読めない女、というやつかもしれない。しかし、ユダの砂漠を車で走っている場面を描いたこの部分を読むと、著者の眼前の風景がまざまざと目に浮かぶ。
『外人部隊の女』でも、いくつかそういう文章に出会った。シュトゥーカ(ドイツ軍の急降下爆撃機)が来襲する場面など、雰囲気を出すために記録映画を見たのではないかと思われるほど、きちんと描かれている。
 こうした訳は、ただ原文を「棒訳」しただけではできない。映像資料にあたることもだいじだし、位置関係を表わす絵を描いたり、模型を手に持って動かしてみたりすると、説得力のある文章を書くのに役立つものだ。そういった努力により、原文よりもすぐれた(!)文章になる場合もままある。
 こういう話題も、これから折々取り上げることにしよう。

 

イエスの王朝 一族の秘められた歴史

イエスの王朝 一族の秘められた歴史

  • 作者: ジェイムズ・D・テイバー
  • 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
  • 発売日: 2006/05/20
  • メディア: 単行本


死海文書の謎を解く

死海文書の謎を解く

  • 作者: ロバート フェザー
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/03
  • メディア: 単行本


外人部隊の女

外人部隊の女

  • 作者: スーザン・トラヴァース
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/09/25
  • メディア: 単行本


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新・翻訳アップグレード教室(36) [翻訳]

 ふたたび読みやすい訳文について――。
 中学校や高校で英語をならっているうちに、どうしても特定の訳語や語義が意識にこびりついてしまう。しかし、翻訳という作業は、まずそれを捨てることからはじまるといってもいい。それには、まず「知っている単語でもかならず辞書をひく」という作業が欠かせない。
 例えば、as far as A is concerened は「~に関するかぎり」と習う。しかし、As far as I'm concerned, he is guilty.を「わたしに関する限り、彼はクロです」と訳したのでは、翻訳にならない。これは、端的にいえば、「この男はクロだとわたしは思う」という意味なのだ。Aが物であれば。「~に関するかぎり」と訳してもよいかもしれないが、それもかたすぎる。「~についていうなら」あたりが適当だろう。
 obsessionも「妄念」「強迫観念」と訳しがちだが、そういかたい意味ではなく、「(激しい)思い込み」「頭を離れない事柄」という程度である場合が多い。英和辞典は往々にして漢語で語義を述べているが、これは「訳語」ではなく「さらに解読すべき言葉」と解釈すべきだ。よく例に挙げるのだが、instinctivelyは「本能的に」と訳すべきではない場合が多い。蜂が目の前に飛んできたとき、「本能的に」手で払う、ということはない。「とっさに」「思わず」が適切な表現だろう。
 この手のインプリンティングは枚挙にいとまがない。これだけで一冊の本が書けるほどだが、とにかく漢語の語義が頭に浮かんだら、まず疑ってかかり、辞書をもう一度丁寧にひこう。何度もいうようだが、『ウィズダム英和辞典』は、こういった丁寧な語義解釈の点でも優れている。上記のような言葉は、もともと自分ではそう訳していたのだが、同辞典の出現までは英和辞典に例を見なかった。

ウィズダム英和辞典

ウィズダム英和辞典

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 三省堂
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本


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新・翻訳アップグレード教室(35) [翻訳]

 翻訳の文章をどうすれば読みやすくすることができるか――簡単には説明できないし、読みやすいことばかりがよいともいえないのだが、しごく単純に考えてまず最初にできる作業は、「字遣い」「表記」に気を配ることだろう。
 歴史・時代小説の読者は、作者がかなり仮名にひらいているのに目を留めるはずだ。漢語やむずかしい言葉が多くなるのでそうしているのだ。翻訳書にもおなじことがいえる。
 ただし、これには好みがある。そこまでいい出すときりがないので、異論反論があるのは承知でしごく簡単に書くことを許されたい。
 また、ノンフィクションなど、新聞雑誌の表記に近づけなければならない本は、その限りではない。
     *      *
「ドアが開く」――「ひらく」と「あく」のどちらにも読める。「ひらく」と「あく」ではニュアンスのちがいもあるが、文字数がちがう。ということは文のリズムもちがう。読む側にもストレスがある――と考える。だから仮名にひらく。
「今、私が言うのは」――不要な読点を入れなければならなくなる。だから「いま」とひらく。「私」は「わたくし」とも読める。だからひらく。昔は「云う」と表記していた。「言う」にはなんとなく抵抗がある。だからひらく。
     *      *
 ワープロ、パソコンを使うようになってから、ことに漢字の多い文章になる傾向が強まった。だから、いかに「ひらく」かが課題になる。
 この問題は短い文ではとうてい書ききれないので、問題提起だけにとどめるが、要はもっと意識すべきだということだ。
     *      *
 漢字の使い方には、男女差があるように思う。これまで見た限りでは、女性ほど漢字を使いたがる。たとえば、「怒鳴る」「素晴らしい」など。そして、「女」という言葉を嫌い、「女性」を使う傾向が強い。日本語の感覚からすると、濁音の混じった言葉は汚い。「女性」という言葉は、歌詞や和歌や俳句にはあまり使えないだろう。いろいろな問題がからんでいていちがいにはどうこういえないが、これも意識してほしい。


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新・翻訳アップグレード教室(34) [翻訳]

 最近、翻訳ミステリの初版発行部数が、極端に落ちている。ひとつには、若い読者がついてこないということがあるだろう。これには訳者もおおいに責任がある。すでに旧聞に属するが、『本の雑誌』2005年10月号は、特集「がんばれ、翻訳ミステリー」を組んで、この問題を取りあげている。旧聞に属すればこそ、いろいろな指摘が胸を打つ。この特集からいくつか(わかりやすくはしょって)引用しよう。
     *     *
「若い人にどうして翻訳を読まないのかと訊くと、読みにくいからって答えが多いんですよ」
「いろんな出版社が新規参入してきても、実力のある訳者はスケジュールが埋まっているので、弟子を紹介する。優秀な方もいるが、そこそこの人もいる。でも需要があるから、どんどん市場に出ていった。必然的に、翻訳作品は読みにくいと読者に思われるようになった」
――紹介すること自体はなにも問題はないが、紹介された訳者のその後の努力が重要だろう。こうした場合、編集者はたいそう苦労する。訳者も紹介する側も、それを気遣わなければならない。
     *     *
「翻訳って原書があるから、極端な話、編集者が何もしなくてもできてしまう。若い翻訳家はなれていないから、訳文の日本語としての質から誤訳の指摘まで、編集者がきっちりと原文と対照してみるべきだ……ただし、それをしなくても本にはなる」
――きちんとした編集者や出版社は、当然こういう原文と対照する作業を行なっている。だから、逆にいえば、出来上がった本はその訳者の実力以上である場合もある。だが、「ゲラを読む手間は(日本人作家の編集と比べると)三倍以上かかる」から、内心では、二度と頼みたくないと思う場合もあるだろう。手間がかかればかかるほど見落としも多くなる。訳者は、編集者がゲラを読む手間ができるだかかからないように努力すべきだ。
     *     *
 訳者は、こういうぐあいに、編集者、校閲、校正といった支援のおかげをこうむっている。また、支援作業のたいへんなことは、日本人作家の原稿とは比べ物にならない。その作業の流れをいかに潤滑にするかということに、心を砕かなければならない。考証、文字統一などは原稿の段階でできるだけ完成に近づけておく。
 多くのひとびとが支援しているので、ローテーションにも気を配ろう。納期が遅れるのは仕方がないこともある。でも、逃げ隠れするのではなく、予定の変更があれば、こちらから伝えるのがすじだ。そうしないと、支援のローテーションが狂ってしまう。
 納期などどうでもいいと豪語する訳者もいるようだが、考え違いもはなはだしい。出版社は本の売上で成り立っており、遅れれば売上に響く。社員の生活にもかかわってくる。ある意味で、訳者は出版社の社員に対して、多少の責任を負っている――それくらいの覚悟がほしい。
 また、最初に部数の話をしたが、どんな場合でも、部数のことで編集者に文句をいってはいけない。編集者は営業や上司などとの折衝を行なった末に部数を決める。訳者のエージェントをつとめて、できるだけ利益になるようにしてくれているといってもいい。むろん、理不尽なこともたまにはあるだろうが、そうした編集者の努力の結果が発行部数であると受け止めるべきだ。
 翻訳は、この世のさまざまな仕事とはまったくちがうと考えている向きもあるが、そうではなく、会社勤めや商店経営とおなじように、誠実に、正確に仕事をするというのが基本なのだ。


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1世紀と21世紀 [翻訳]

 ここのところ、新約聖書の時代とグローバリゼーションの時代を行き来していて、いささか「時差ぼけ」の状態。どちらも5月に刊行される予定だが、かなりおもしろい本なので、ちょっと紹介しておこう。
 1世紀のほうはThe Jusus Dynasty by James D. Tabor――歴史上の実在の人物としてのイエス・キリストを、考古・書誌・古文書といったさまざまな分野の学問を通じて解明しようとする。といっても、トンデモ本という評判がいよいよ高くなっている「ダ・ヴィンチ・コード」に対する「反ダ・ヴィンチ・コード」本ではない。聖書に描かれていることをもとに、緻密かつ客観的に検証している。長年の研究の成果である。学者の書いた本ではあるが、けっして読みにくくはない。読み物としてもおもしろいし、図版も多く、まとまりもよい。『聖書を歩く』の訳者黒川由美さんに後半を手伝ってもらった。原書はそろそろ手にはいると思う。
 21世紀のほうはThe World Is Flat by Thomas Friedman――大ベストセラー『レクサスとオリーブの木』の著者フリードマンが、グローバリゼーションと世界のフラット化について綿密な理論をくりひろげている。昨年出たばかりの第1版を改訂増補したもの。100ページ以上増えて、内容も大幅にあらためられている。
 この本は、インターネットによって個人がビジネスの世界でも大きな力を持つようになり、なおかつ通信インフラの整備によって、モノではなく知識のアウトソーシングも可能になった現在、政府関係者や企業人ばかりではなく、個人もどう繁栄してゆくかを考えるうえで必読の書となるだろう。
 原書は、あわてて第1版を買わず、新版が出るのを待つこと。

The World Is Flat: A Brief History Of The Twenty-first Century

The World Is Flat: A Brief History Of The Twenty-first Century

  • 作者: Thomas L. Friedman
  • 出版社/メーカー: Farrar Straus & Giroux (T)
  • 発売日: 2005/04/05
  • メディア: ハードカバー


The Jesus Dynasty: A New Historical Investigation of Jesus, His Royal Family, And the Birth of Christianity

The Jesus Dynasty: A New Historical Investigation of Jesus, His Royal Family, And the Birth of Christianity

  • 作者: James D. Tabor
  • 出版社/メーカー: Simon & Schuster
  • 発売日: 2006/04/04
  • メディア: ハードカバー


聖書を歩く 上 旧約聖書の舞台をめぐる旅

聖書を歩く 上 旧約聖書の舞台をめぐる旅

  • 作者: ブルース ファイラー
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


聖書を歩く 下 旧約聖書の舞台をめぐる旅

聖書を歩く 下 旧約聖書の舞台をめぐる旅

  • 作者: ブルース ファイラー
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈上〉

レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈上〉

  • 作者: トーマス フリードマン
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2000/02
  • メディア: 単行本


レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈下〉

レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈下〉

  • 作者: トーマス フリードマン
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2000/02
  • メディア: 単行本


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新・翻訳アップグレード教室(33) [翻訳]

 もうX十年も昔の話になるが、高校のリーダーの先生がおもしろい人で、ずいぶんいろいろなことを教わった。それがいまなお役立っている。
(1)probablyは、「たぶん」ではなく「十中八九」。
(2)wetは、「湿っている」ではなく「びちょびちょ」。
(3)the manは、「春木先生に内緒の代名詞」。
 まずは(1)から――
 蓋然性の高さはおおざっぱにいうと――
 definitely>probably>perhaps>maybe>possiblyの順になる。
 もうちょっと細かく区別するなら――
 definitely(確実に)>no doubt, doubtless(まちがいなく)>almost certainly(ほぼまちがいなく)>presumably(どうやら)>probably(十中八九)>hopefully(うまくすると)>perhaps, maybe(ひょっとすると)>possibly(ことによると)という順番である。ただし、訳語が文脈によって異なるのはいうまでもない。
 つぎは(2)だが、wetもまちがいやすい言葉だ。たとえば、道路がwetなときには、「濡れている」ではなく「水浸し」という訳語がふさわしい場合があると心得ておこう。ウェット・ティッシュなるものがあるが、あの状態はどちらかというとmoistであってwetではない。
 (3)の「春木先生」とはグラマー担当で、ホーチミン髭を生やし、肩をいつもいからせていた先生である。じつはいつもきこしめして授業をやっておられたそうだというのを、同窓会のときに担任の先生に聞いた。それはともかく、英文にはこうした「隠れた代名詞」が多く使われている。それをリーダーの先生は、「春木先生に内緒の代名詞」といういいまわして教えてくれたのだ。なぜなら、heやsheばかり使っていたのでは、だれがだれやらわからなくなるからだ。すなわち、the tall manといった表現をいちいち「背の高い男」と訳す必要はないし、かえってわかりづらくなる。その男がBobであるなら、おおかたの場合、単純に「ボブ」とすればいい。むろん、前後関係や文脈、パラグラフにおけるその「代名詞」の位置によって、あんばいしなければならない。
 ちなみに、春木先生のグラマーで使っていた辞書はホンビーの小さな「新英英大辞典」では、wetの語義はcovered or soaked with water or some other liquid.となっている。「濡れた」がまちがいだというのではない。ただ、どういう場合にでもwet=「濡れた」でとどまってしまうのは、自分の「日本語変換辞書」の語彙が乏しいのを暴露するようなものではないか。wetは隠れた副詞を含んでいるから、「(汗で)びっしょりになる」「(涙で)しとどに濡れる」と訳してよい言葉なのだ。

新英英大辞典

新英英大辞典

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 開拓社
  • 発売日: 1973
  • メディア: 単行本


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新・翻訳アップグレード教室(32) [翻訳]

 前に取りあげた『英単語のあぶない常識』に「claimはクレームか」という項目があって、こんなことをまちがえるひとがいるものかと思ったが、先日、「タンカー火災をしのぐクレームが保険会社に殺到する」という趣旨の訳文を見つけて唖然とした(そのまま引用すると訳者がわかるおそれがあるので変えた)。もちろんこのclaimは保険金請求のことだ。英語のclaimにクレーム(苦情)の意味はない。
 この本には、「時速XXノット」という表現もあちこちにあった。ノットは時速XX海里のことだから、むろん「時速」はつかない。
 ついでながら、原書でmileとされていても、場所が海や空であるなら、いわゆすstatute mile「マイル」ではなく、nautical mile「海里」である可能性が高い。英米はもとより、日本の海や空の現場でも、わざわざ「海里」「ノーチカル・マイル」とはいわず、ただ「マイル」という場合がほとんどだ。「海里」は「マイル」とはちがい、地球を物差しにした単位で、航法にはもっぱらそれが使われているからだ。
 ごくおおざっぱな話をしよう。地図があれば見てほしい。三宅島は北緯34度のやや北、房総半島の館山は北緯35度あたりにあるのがわかる。緯度一度の距離が60海里に当たるから、この2点の距離は60海里前後になる。仮に平均速力10ノット(つまり時速10海里)で航海するとすると、三宅島から館山まで約6時間で行けるわけだ。このノットという単位は、飛行機の速度にも用いられる。
 逆にいえば、海や空ではstature mileは(地上の距離関係で用いられるのでないかぎり)、単位として重要な意味を持たない。だから、舞台が船や飛行機であるなら、「マイル」といえばまず「海里」だと判断しなければならない。
 メートルもまた本来は地球を物差しにした単位である。現在はもっと精密なほう法により計測されているが、当初は子午線の北極から赤道までの1000万分の1とされていた。
 この間の緯度は90度、これに60をかけた5400海里が、北極から赤道までの距離になる。
 1000万÷5400=約1852 つまり1海里は約1852メートルだとわかる。
 くりかえすが、空海軍パイロットや艦艇に乗り組む海軍士官がmileといったら、それはnautical mileのことである。「マイル」と表記してもよいかもしれないが、「海里」だということは肝に銘じておかなければならない。そうでないと、位置関係や距離の面で食いちがいが生じる。
     *     *
 帰省シーズンで車に乗ることも多いだろうから、ついでに便利な頭のなかの「タキメーター」の話をしよう。クロノグラフを持っていれば、リング状のタキメーターがついている場合があるから見てほしい。
 これは速度と距離の計算には、非常に便利な「計算尺」だ。
 まず道路の距離標識に注目する。1km行くのに1分だと、時速60km。30秒だと時速120km。つまり……。
 時速60kmで安定して走ると、当然ながら60km行くのに1時間。では時速120kmでは――所要時間は半分の30分になる――。
 おおざっぱにいうと、自動車で走っているときのタキメーターの計算式は、このように60kmと60分のような6の倍数を基本とするといい。時速60kmで1分間にすすめるのは1km、速度が1.5倍の時速90kmなら、1.5km行ける。出口まであと15kmであれば10分で出られる、とわかる。時速100kmなら、10分弱、とおおざっぱに考えよう。
 頭の体操をすると眠くなる、というひとは計算をやめましょうね。


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新・翻訳アップグレード教室(31) [翻訳]

 海外の小説を訳すのに『知って役立つキリスト教大研究』が役立つことは、前に触れた。それはそれとして、聖書の一冊ぐらい持っていなければならないが、これがじつはなかなか厄介な問題を含んでいる。定本があるようでないからだ。
 以前住んでいたところの近くには神学校があり、古本屋にちょっとめずらしい聖書が出ることがあった。よく使う『旧約・新約聖書』(ドン・ボスコ社 1964年初版 1973年7版)、『舊新約聖書』(日本聖書教会 1973年)はそこで手に入れた。
 名前のところは切り取られているし、古本屋に聖書を売るぐらいだから、持ち主は落第生だったのかもしれない。ともあれ、前者は口語訳、後者は文語訳である。ただし、この二冊をそのまま対照するわけにはいかない。なぜなら、ドン・ボスコ社の聖書はカトリック訳、日本聖書教会の聖書はプロテスタント訳だからだ。解釈や表記(カトリックでは「イエス」ではなく「イエズス」等々)がちがうだけではなく、正典とするものもちがう。ドン・ボスコ社の聖書には、「外典」とされるものがいくつか含まれている。
 カトリック・プロテスタントの「新共同訳」はまだ買っていないのだが、いのちのことば社の『新改訳聖書』は注解や印象が便利そうなので最近買った。これはプロテスタント向けのようだ。
 いずれにせよ、聖書の言葉は文語訳のほうが感じが出るので、じっさいには『舊新約聖書』の訳を参考に訳す場合が多い。文語訳の古い聖書を古書店で見つけたら、買っておくとなにかの役に立つはずだ。なお、原書はOxford University PressのThe Holy Bibleを使っている。
 ついでながら、イスラム教の『聖クルアーン』は以下のページで日本語検索できる。
http://cgi.members.interq.or.jp/libra/nino/quran/index.html


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