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『怒りの葡萄』を訳す、その1 [雑記]

 はじめにお断りしておくが、ここでは既訳について具体的な指摘は行なわない。数々の誤訳・珍訳を指摘することは容易だが、それはこの文章の本意ではない。ただ、これまでの訳をざっと見ると、《コンサイス英和辞典》一冊しか使わなかったとしてもありえないような誤りが散見する。たとえば…road cut off at right angle through the fields(畑のあいだに直角に敷かれた道)を「畑を横切って右に走る道」と訳しているものがあった。また、kettleを「薬缶」と訳すのも、迂闊すぎるだろう。ちなみに、古い《コンサイス》にも「かま」という語義はあるし、《ウェブスター》にも「鍋一杯のシチュー」という例文がある。文脈からも、薬缶でシチューをこしらえるなど、ありえないとわかる。《ウィズダム英和辞典》にも、「鍋、かま」とある。
 そのほか、多数の名詞で、英和辞典にあることばをそのまま用いているのを見かける。他の資料で調べようがあることについても、考証を怠っている例が多い。gopherは正しくは「ホリネズミ」だが、辞書では「ジリス」となっているものもある。風景描写には、映像資料が役立つ。「オーキー」たちを撮影したことで有名なドロシア・ラングの写真集などは必見だろう。ルート66に関する資料も数多くある。
 もちろん、じっくり調べて丁寧な訳注を付すなど、優れた訳もある。だが、近年、原作の研究が進んで、注解付きのテキストも何種類か出ているので、既訳でふたしかだった点もかなり解明された。(1)誤訳を正し、解釈を明解にする、(2)現代の読者が読みやすいような文章にすることに心を砕く――というのが、このような古典を新訳するうえでの要諦だろうが、(3)これまでにない唯一無二の訳書を著わす、ことも肝心ではないかと思う。しかしながら、最初から大風呂敷をひろげるのではなく、ここでは淡々と小さな部分を取りあげていきたい。それによって、訳者の意図も見えてくるはずである。
(第1章)
the last rains「最後のまとまった雨」……ふつうは不可算名詞のrainが複数になっている(つまり可算名詞)ときには、なにを意味するか? 《ウィズダム英和辞典》にあるように、「(一回の)大量の雨」のことだ。だから「最後の雨」という訳ではじゅうぶんに表現されていない。しかし、この部分をきちんと描いている既訳は皆無である。
the gray country「灰色の地(くに)」……政治形態としての「くに」ではないものを表わす文字がほしかった。「古くは天と地(くに)とを対称した」《字訓》白川静に拠った。
cut「毀(やぶ)る」……「土のかたまりを崩す」ことを意味する文字である。
rivulet marks「行潦(にわたずみ)の跡」……「にわたずみ」は古語のように思われるかもしれないが、『海市』福永武彦(1968年)に見られる。
plow「犂」……牛馬が使うものは「犂」。人間が使うものは「鋤」、「くわ」である。
gullies「雨裂(ガリ)……スタインベックは、まさにその現象を表わすwater cutという言葉も使っている。
gust「風の息」……辞書では「突風」という訳語がほとんどだが、気象用語では「風の息」という。地表近くでは、風はつねに急に強くなったり弱まったりする。この現象を指す。原文はthe wind increased, steady, unbroken by gustsとなっている。この文からもわかるように、gustsは「いきなり吹く強い風」と「いきなり風が弱まったりとまったりする」ことの両方を意味する。
sill「沓摺(くつずり)」……「敷居」という訳語がよく見られるが、「敷居」は戸を滑らせるためのものであり、構造も目的もまったく異なる。「くつずり」と戸のあいだには、通風のための隙間があることが多い。
(第1章つづく)


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