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ことばの美学44 たまには翻訳の話をしよう [雑記]

1 はっきりいって、「彼」「彼女」を多用する訳が、ぼくは好きではない。そういう文章が多いから、翻訳書を読むことがどうしても減ってしまう。
(例A)彼をからかって、それでうれしそうな顔をする彼を見るのは愉快だったが、それにもうんざりして、彼女は彼を早く帰らせたくて、ドアのほうへ進んだ。
2 それに、どうせなら、固有名詞に置き換えたい。英語の「彼」「彼女」は、便宜上のコトバに過ぎないからだ。the small manなら「小男」、the beautiful ladyなら「美しいご婦人」と訳さなければならないわけではあるまい。それらは隠れた代名詞であり、「彼」「彼女」と変わりがない。
(例B)トムをからかって、うれしそうな顔を見るのは愉快だったが、それにもうんざりしたミシェルは、早く帰そうとしてドアのほうへ進んだ。
 例Bのほうが絶対的にいい訳、というわけではない。たんに好みの問題だろう。しかし、例Aのように訳すのであれば、時間は2割は節約できる。逆に、言葉を節約しようと思ったら、時間は2割は多くかかる。比喩的にいえば、カンナをかけるかどうかのちがいだ。
3 もうひとつ、気をつけなければならないのは、視点が移ると、地の文の「彼」が、かならずしも「彼」と訳すのが適切とはかぎらなくなることだ。
 すこし長くなるが、ここでは、あえて「彼」を多用して訳してみる。
(例C)そして、ビュイックのライトが薄れ、夜がいっそう暗くなってからしばらくして、どこかでコヨーテが吠えて、べつのコヨーテがそれに応えるころに、ビリーはベランダの揺り椅子から立ちがり、家にはいって、廊下を進み、そこにあった散弾銃を見つめた。首をふった。それから、彼はひと部屋ずつまわりながら明かりを消していって、ベッド脇の電気スタンドだけが残った。眠りに落ちる前に彼が考えたのは、朝になったら彼がマイケルに電話し、パーツ屋に寄ってビュイックのプラグ一式を手に入れるよう彼にいわなければならない、ということだった。彼が、マイケル、型を知っている。
(例D)そして、ビュイックのライトが薄れ、夜がいっそう暗くなってからしばらくして、どこかでコヨーテが吠えて、べつのコヨーテがそれに応えるころに、ビリーはベランダの揺り椅子から立ちがり、家にはいって、廊下を進み、そこにあった散弾銃を見つめた。首をふる。それから、ひと部屋ずつまわりながら明かりを消していって、ベッド脇の電気スタンドだけが残った。眠りに落ちる前に考えたのは、朝になったらマイケルに電話し、パーツ屋に寄ってビュイックのプラグ一式を手に入れるようにいわなければならない、ということだった。マイケル、型はぼくが知っているよ。
4 極端ないいかたをすれば、パラグラフで視点が決まったら、そこで三人称は一人称と化す。好むと好まざるにかかわらず、そうやって読者の意識にはいりこむ、いや読者を登場人物の意識にはいりこませることは、日本語の文章の作法としてありうる。
 He, Michael, knew the type.を「彼が、マイケル、型を知っている」とするのは誤訳ではないが、日本語の文章としてはこなれていない。逆に、「彼」の意識で訳してくると、これを「彼が、マイケルが、知っている」と誤訳しかねない。
5 要するに、「誤訳ではない」というレベルの訳でいいのか? ということなのである。さらにいえば、「翻訳」は「ホンヤク」でよいのかということなのである。しかし、それでよいというのなら、それはそれでよいのである。イケアの組立家具も、職人がこしらえた桐の箪笥も、服を入れる役には立つという点ではおなじ――それだけのことだ。


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