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私見――陰謀理論と理性としてのミステリの戦い [本・読書]

『フラット化する世界』下巻に、つぎのようなくだりがある。
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「インターネットというこの新しい情報伝播システムは、合理性よりも不合理性を多く伝える傾向がある」メディアと政治の相互作用を研究している政治学者のヤロン・エズラヒはいう。「なぜなら、不合理性は感情的で、知識を必要としない。だから、より多くの人々に多くのことを説明でき、受け容れられやすい」アラブ・イスラム世界で陰謀理論がひろまりやすい理由はそこにある。残念ながら、西側世界もあまり変わらなくなっている。陰謀理論はドラッグを血液にじかに注射するように、「霊光」を見せてくれる。インターネットが針だ。かつて若者は逃避するのにLSDを使わなければならなかった。今はネットに逃げ込む。注射する代わりに、ダウンロードする。自分の偏見に沿うものをダウンロードする。フラットな世界がそういったことを容易にした。
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 インターネットのように早く情報が広がるシステムがあると、陰謀理論はいっそう早く伝播する。その恐ろしさがここで説明されている。
 これをミステリに喩えて考えてみよう。
 ミステリはもともと、人間の暗い部分(犯罪)を底流に、それを理性で解決もしくは抑制しようとするものだった。名探偵が真犯人の正体をあばくのには、「犯罪は引き合わない」ことを証明する目的があった。
 また、指紋などの科学的証拠は、真犯人を突き止めるばかりではなく、冤罪を防ぐのにも力がある。
 ここには、「理性が人間を制御している」という価値基準がある。
 ところが、9・11はそれをくつがえした。人間はあんがい理性では動いていないのだ、ということがああいう形で実証されてしまった。そこからミステリの苦渋がはじまった。私立探偵たちが輝きを失ったのも無理はない。狂気を相手にしたとき、理性的な忖度は成り立たなくなってしまったのだ。バラードの『コカイン・ナイト』は、奇しくもそういった狭間にある「探偵」を描いている。
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 ずばりいおう。『ダ・ヴィンチ・コード』は陰謀理論である。受け入れられやすいこと、信じてしまいたいことを描いていて、根拠はまったくない。フィクションとはそういうものだ。作り話であるのだから、といってしまっては、ミステリの立場がなくなる。ミステリとは(どんなジャンルであれ)ひとつのたしかな骨組みの上に成り立っているものだからだ。
 従来であれば、こうした陰謀理論の小説は、明らかにB級、C級と見なされていた。ところが、これが広く受け入れられた……それによって、理性としてのミステリは叩き潰されてしまった。冒険小説をすこしでも読んだことがあれば、『ダ・ヴィンチ・コード』がいかに低レベルの小説であるかがわかるはずだが、それでもこれだけ受けている。しかし、ミステリとして読まれているのではない。
 誤解されてはこまるが、この項は、『ダ・ヴィンチ・コード』批判が目的ではない。陰謀理論がひろく受け入れられる――集団催眠にかかりやすい素地が社会にあることが怖いといいたいのだ。
 理性はかならずしも人間社会を制御していない。これは歴史が物語っている。ナチス・ドイツがどうであったか? 日本が第二次世界大戦に突入してゆく過程がどうであったか?
 政府、マスコミ、国民がすべてひとつの方向に向かって、熱狂的に突き進む……その恐ろしさをもっと理解しなければならない。『ハリー・ポッター』への熱狂、『ダ・ヴィンチ・コード』一作への傾倒は、あまりにも危険すぎる。
 理性としてのミステリは、陰謀理論と闘いつづけなければならない。たとえ蟷螂の斧でも。

コカイン・ナイト

コカイン・ナイト

  • 作者: J.G. バラード
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/06
  • メディア: 文庫

フラット化する世界(上)

フラット化する世界(上)

  • 作者: トーマス・フリードマン
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2006/05/25
  • メディア: 単行本


フラット化する世界(下)

フラット化する世界(下)

  • 作者: トーマス・フリードマン
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2006/05/25
  • メディア: 単行本


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